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An image塩のまめ知識

日本の塩の歴史(1)

 

日本の塩の歴史を分けてお話ししていきたいと思います。第1回目の今回は、日本の塩づくりのはじまりについてです。

昔は貴重だった「塩」

まわりを海水で囲まれた島国の日本なので、塩は昔から多く流通していた様なイメージがありますが、実は昔は大変貴重な物でした。
 貴重だったという証拠に、日本全国には、塩にまつわる物語や地名がたくさん有ります。各地に塩を運ぶための道「塩の道」が張り巡らされ、海の産物と山の産物を結ぶ暮らしの道となりました。たとえは、長野県の塩尻といった地名は、山間部では手に入らない塩の流通の尻(太平洋側の塩と日本海側の塩が出会う終着点)として名付けられた名前だそうです。
 また、塩の産地としては瀬戸内が圧倒的に有名ですが、関東地方にも製塩を連想する地名が数多く見受けられます。東京湾周辺の千葉県・東京都・神奈川県に多くある塩浜という地名がその1つで、「塩浜」とは塩づくりに使う砂浜(塩田)のことで、江戸時代には生活必需品として塩が盛んに生産されていました。

日本の塩づくり

それでは、日本の塩づくりの始まりはいつごろからでしょうか? 海から取れる魚貝類には当然塩味が付いていますし、動物の肉にも塩分が含まれています。狩猟生活をおくっている限り、体はそれほど塩を必要としません。 その事から、生活様式が狩猟生活から稲作をはじめとした農耕生活に変わり、穀物主体の食生活に変化した縄文時代の終わり頃から塩づくりが始まったのではないかと言われています。
なぜ、穀物主体の生活になると塩を欲するのでしょうか?それは、穀物主体の食生活になると、植物に多く含まれているカリウムが体に多く入ります、それに対して、ナトリウムをとる量は減少します。
人間の身体は、余分になったカリウムを体外に出す時、ナトリウムを必要とします。すると次第に 身体はナトリウム不足となり、自然に塩(塩化ナトリウム)を要求するようになります。
牛、馬、羊などの草食動物が塩を要求するのもこのためです。

最初の製塩は、海藻を燃やし後に残った灰を塩味として使っていました。もちろん、灰なので苦みもあったでしょうし、色も今の様に白くはなく灰色だったにちがいありません。
弥生時代になると、海藻を焼かず太陽で乾燥し、そこに海水をかけることにより濃い海水を取り出して、土器で煮詰める方法(藻塩焼き)が発達しました。
この藻塩焼きに使われた土器は全国各地の海辺に近い遺跡から多数見つかっており、褐色を帯びた塩だったといわれています。この様子は万葉集にも歌われ、最近ではご存知の方も多いと思いますが、この方法を模して作られた藻塩がたくさん販売されています(塩なび検索:藻塩)。

ちなみに、現在発売されている藻塩には製法の定義は無く、各社各様のつくり方で製造されていますが、商品に記載されているコメントを眺めながら、たまには縄文人の雰囲気を味わっては如何でしょうか。

この藻塩焼きを紀元として、日本の製塩が始まりました、四方海に囲まれた日本は簡単に塩が取れると思いがちですが岩塩として塩が取れる国と比べ、海水を煮詰め、精製しなければ出来ず、時間も手間もかかるため色々と工夫し塩つくりが始まりました。
今では、戦後に開発されたイオン交換膜を使った最新鋭の方法で、クリーンでまっしろな塩が作られていますが、ここに至るまでの過程は、塩の結晶のごとく、努力の結晶だったのではないでしょうか?

1000年以上続いた塩田の製塩

現在のイオン交換膜を利用した製塩法が開発されるまで、塩田による製塩は1000年以上も続きました。日本は島国のため、塩は海水を煮詰めて作るしかありませんでした。 さて、その海水を煮詰めるとき、気になる点が2つあります。 煮詰める時に使う火(燃料)とたくさんの海水を鍋に運ぶ労力です。

なるべくなら火をおこす時間が少ない方がいい(燃料が少なくてすむ)。また、水は非常に重いもの、どうせなら少ない回数で済ませたい…そんな思いから、塩田は生まれました。 要するに日本の塩田は、塩を作るのではなくて、海水を濃くする手段として作られたのです。

2種類の塩田

日本の塩田では海水の汲みあげ方により2つの方法がありました。揚浜式と入浜式です。 「揚浜式塩田」は、今から1200年位前の平安時代に考案された塩田です。 海水が漏れぬよう粘土で固めた平らな床の上に砂をまき、そこに海から桶でくみ上げた海水をひしゃくでまくと、砂の表面に付着した海水の水が太陽と風で蒸発し、表面に塩が残ります。その塩の付いた砂を寄せ集め、その砂を海水で洗い流すことにより濃い海水を得ていました。まるで風が吹いたら桶屋が儲かる風ですが、他によい方法がなかったようで、濃縮に砂を使う方法は昭和になるまで続けられました

しかし、塩分が3%しかない海水を桶でくみ上げる仕事はあまりにも大変でした。そこで海の干潮を利用して海水を塩田に引き入れる方法が考えらえれました。この方法を「入浜式塩田」と言い、500年位前(室町時代末期)から昭和30年頃まで続けられました。

この自然の力を利用した大変合理的な方法は、干潮と満潮の差が大きい瀬戸内海沿岸で開発・発展しました。江戸時代中期には瀬戸内海沿岸のほぼ全域にあたる十州で塩作りが栄え,現在でも日本の塩作りのメッカとなっています(お塩のメーカーが瀬戸内海沿岸に多いのはここに由来します)。

このように、自然と向き合って効率よい方法で日本の塩業は成長してきました。 しかし、天候により製造が左右されてしまう塩田を用いた方法は、効率はよくなっても重労働である事には代わりがありませんでした。

それを打破し、もっと効率よく精度の高い製塩法が開発されました。それが現在の塩製造の主流となっている「イオン交換膜製塩法」なのです。 次回は、その辺をお話ししたいと思います。 ※ 十州とは昔の地名で、播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、阿波、讃岐、伊予のことで現在の兵庫県、岡山県、広島県、山口県、徳島県、香川県愛媛県にあたります。